お葬式がこの先生きのこるには

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お葬式に相談だ。

・明治天皇の神社は東京にあるのに何で、陵は京都にあるのだろう?とか、皇室と泉涌寺(せんにゅうじ)の関係はどんな風になっているのか?とか疑問に思っていたが、この本に詳しい解説がある。その他、色々とクリヤになった。紹介程度に書いておこう・・。著者は東北大文学部宗教学科卒。仏教や日本史関連本を沢山書いている。 XXXXXX・「歴代天皇で初めて火葬されたのは持統天皇で、千三百年も昔の大宝三年(703年)のことだった。以来、天皇の葬方は火葬だったり土葬だったりし、江戸時代初期の承応三年(1654年)に崩じた*後光明天皇からはずっと土葬である。江戸時代の天皇の葬儀は京都東山の**泉涌寺で行われた。もちろん仏式の葬儀で、遺体は境内の「帝王陵」と呼ばれる区画に埋葬された。「陵」といっても墳丘があるわけではなく、大名の墓に似た石塔が立ち並んでいる。・・・中略・・・孝明天皇のとき・・・中略・・・王政復古の気運は天皇陵の形にも及び、墳丘が築かれたのである。ただし、その場所は泉涌寺の***裏山で、葬儀も泉涌寺で行われた。」(p.5)。*火葬の時は分骨されることも多かった。泉涌寺が天皇の葬儀ならびに陵所を独占する「御寺;みてら」になるのは1564年に崩じた後光明天皇のときに土葬が復活して分骨が行われなかったから・・。**「最初に泉涌寺に葬られた天皇は第87代の四条天皇。1242年。わずか12才だった。」何でも「女官らが滑って転んだら楽しいと御所の廊下に滑石をぬったところ、自分が転んで不慮の頓死をとげた・・。」のだそうだ。(p.52)。***「泉涌寺境内に埋葬された天皇の陵は、まとめて月輪陵(つきのわりょう)(光格天皇以下は後月輪陵)という。・・中略・・そこに25陵(皇后陵を含む)、5灰塚、9墓がある・」(p.70)。孝明天皇の陵はこれらの陵の背後に位置する(後月輪東山陵:のちのつきのわひがしりょう)。 ・平安時代には、王法と仏法は混然一体となっていて、天皇は即位灌頂で大日如来の弟子になっていたのだった。「灌頂とはもともと、インドで王が即位するときなどに頭に水をそそいで神々に選ばれたものとする儀式だった。それが加持祈祷を重視する密教で、大日如来と結縁する儀式となった。即位灌頂は第71代後三条天皇の即位式(1068年)を初例として平安時代後期に断続的に行われた。鎌倉時代の伏見天皇(1287年即位)からは恒例となり、明治天皇の即位式で廃止されるまで続いた。」(p.48)。 ・宮中でも神仏混淆で「正月の後七日御修法や歳末の仏名会、御黒戸(御所の仏間)での天皇・皇后代々の供養など、さまざまな仏事が引き続き行われた。」(p.75)。 ・ところで、天皇家の地位は中世に大いに低下した。まず、保元の乱(1156年)で天皇家内部の争いに武士の加勢を頼み、武士が台頭。次に、承久の乱(1221年)で、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して挙兵したが、敗れて「・・上皇側についた武士の所領は没収され、鎌倉方で参戦した武士に恩賞として配分された。それにより幕府の執権北条氏の権勢がかたまった。いっぽう。京都に(三人居た)上皇は一人もいなくなって院庁は消滅し、朝廷も瓦解同然になった。」(p.50)。 ・御料地やら公家の荘園が戦国大名に簒奪されていき、天皇・朝廷は窮乏し、宮中祭祀を行うのもままならなかった。宮中祭祀もしばらく中断を余儀なくされた。天皇一代に一度行われる大嘗祭も1466年の後土御門天皇のときを最後に一時途絶えた。復活は江戸幕府のサポートによる1687年東山天皇の221年後!だ。また「7社奉幣神事」は1744年に再開された。 ・江戸中期以降の尊王思想の高まりのなかで、天皇陵修復が行われた。「元禄の修陵」(1697-1698),「文久の修陵」(1862-1864)など数回にわたった。後者では神武天皇陵を候補地を絞り込んで修復した。 ・明治維新の「王政復古」の神祇官設置なども面白い。結構ドタバタしてる感じ・・。 ・明治天皇の葬儀は神仏分離で神道式で行われた。(装束や音楽(軍楽隊も!)は、和洋折衷だった。)陵については豊島岡墓地がすでに用意されていたが、「遺詔がある」との昭憲皇太后などの発言で、京都の「桃山」に定められた。東京「奠都」に対しての京都側の「巻き返し」と思われるが、あえて理由を探せば、1)桃山には昔(秀吉が桃山城を築城する際、壊されてしまい、場所の特定もできないが・・)桓武天皇陵があった。2)泉涌寺や孝明天皇廟からも近い。3)討幕の端緒を開いた鳥羽伏見の戦いがあった場所にも近い。4)世襲親王家の伏見宮家(そこから102代天皇の後花園天皇が出た。現在の天皇家の直系の初祖)の故地である・・が挙げられる。 ・東京側は、「それでは、神社は東京に!」というので、数か所候補地があがったが、「代々木御料所」に決定した。これが明治神宮。 ・第八章以下(明治天皇の大葬、大正天皇の生涯と大葬、昭和天皇の時代、昭和天皇の大葬)も興味深い記述が続くが、ここは割愛・・・・。ひとつだけ、「お出かけ:行幸」する天皇の始まりは明治天皇だったことを書いておこう。「民情・風俗視察のため」(p.140),「民衆の前に姿を現したことこそ近代の天皇のもっとも大きな特色である。それによって、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(帝国憲法第一条)という天皇が国民に認知され、大正時代以後には「明治大帝」ともよばれるようになる。」(p,142)のであった。


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@Japangard @Dressstyna 辻元のお葬式の様。
RT @anonymous201504: 【野党審議拒否】野党の女性議員達がセクハラ抗議の意味を込めて黒服を全員が着用~ネットの反応「ハリウッドの真似か…キモっ」「テレ朝にも黒服で抗議しにいけ!」「自分達のお葬式用の喪服ですか?」 https://t.co/y1i2mWM3uR
 2018/04/21 09:49 retycia
お葬式にお金を掛けないなら、きみとつきあってもいいよ あたしは生きてる人間にしか想いを抱けないから

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